太古逍遙

三内丸山縄文遺跡

 家人の帰省に付き合う度に少し脚を伸ばして訪ねてみたいと焦がれていたのが青森市郊外の三内丸山遺跡。梅雨最中の七月上旬に漸く念願を果たすことが出来た。  ここ三内丸山遺跡は2021年に「北海道・北東北の縄文遺跡群」として世界遺産登録されたが、このブログ(当時ははてなダイヤリー)を始めた2005年に訪れた秋田県の「大湯環状列石」もこの中に含まれている。いささか古い記事だが一応リンクを・・・・

tpong.hatenablog.com

 さてその縄文時代だが、実は1万年以上とめちゃめちゃ長く続いた時代区分。稲作が始まった弥生時代がおよそ1300年間ほど。それ以降の古墳時代から現代に至るまでが概ね1700年なので、縄文期がいかに長かったか推して知るべし。そして三内丸山の地に大規模集落が存在したのが約5900年前~4200年前の縄文前期から中期にかけてのおよそ1700年間。ザックリ五千年前というと海の向こうではエーゲ文明やメソポタミアのシュメール、お隣中国で黄河文明が起こった頃。クフ王が大ミラミッドを造営したのが約4,270年前。縄文時代の日本列島に文明(Civilization)が存在したのかと問われれば無理があろうと思われる。ではあるのだがこの遺跡を巡り数多の出土品を見たならば文化(Culture)の有り様は見て取れる。「文字」が無くても文化の花は咲くのだろう。   一枚目の手前、大型縦穴建物の内部。言うまでもなく遺構から推察して復元された建物なので、屋根の構造などは想像の域を出ない。だがその広さは疑いの余地もなく、驚くほどの内部空間。黄色い服を着たボランティアのガイドさんを取り囲む見学者たちが広さを物語っている。  三内丸山を象徴するのがこの大型掘立柱建物。建物の有り様は想像の域を出ないが、柱の太さと数や間隔は遺構が残っているので間違いない。遺構に残っていた栗の丸太は直径1メートル以上。原生林が失われゆく今の日本では考えられない巨木だね。  こちらは住居だと考えられる縦穴建物。土葺き・茅葺き・樹皮葺きの三形態で復元されていた。  茅葺きの向こうには樹皮葺きの建物。案外土葺きが本命かも知れない。  こちらは掘立柱建物。高床式なので貯蔵庫かと思ったのだが、死者を弔う施設だった可能性もあるそうだ。そういえばニューギニアだったかな、そんな習慣を持つ部族が居たような・・・・  遺跡のゲートとして「縄文時遊館」なる施設があるのだが、そこの「さんまるミュージアム」で常設展示されている多岐にわたる出土品のボリュームには圧倒される。この遺跡の出土品を代表する大型板状土偶は何を物語っているのだろう。  と、駆け足の遺跡探訪だったのだが、この遺跡ではボランティアのスタッフによる無料のガイドサービスがある。日に7回ほどの出発時間が設定されていて1時間ほどの所要時間。時間が許すならこれに参加してからゆっくり巡るのが良いかも知れない。

 ともあれ得がたい時間を満喫できた。ボランティアのガイドさんや遺跡スタッフの皆様、ありがとうございました。

六十年の記憶

青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸

 全く別の目的で訪れた青森にて、夕食処を探しがてら駅周辺をそぞろ歩き。すると錆の浮いた黄色い船が接岸している光景が見に飛び込んできた。案内板には「青函連絡船メモリアルシップ八甲田丸」とある。なんでも青函連絡船としての役割を終えた船舶を青森駅に隣接した埠頭で海上博物館として保存展示しているらしい。  時間は既に夕刻。内覧できる時間は過ぎており、薄暮の中で目に留まった光景をiPhoneで撮るうちに、色は違えどなんとなく船名に憶えがあるような。

 遙か昔の記憶を辿ってみるに、子供の頃に家族旅行で乗った船だと思い至る。亡父が「新造船だ」とか「処女航海」と語っていた記憶も合わせ調べてみると、なるほど1964年7月31日竣工とある。逆算するとヒゲボウズ7歳の記憶。乗り物好きは今に始まったことではなかったようだ。  旧国鉄の船舶だけに、可動橋を介し鉄道車両を積み込めた。さしずめカーフェリーならぬトレインフェリーだったことになる。

 青函連絡船といえば太平洋戦争末期に悉く米軍に沈められた悲しい過去があるし、台風で沈没した洞爺丸事故も水難史に刻まれている。博物館としての八甲田丸には機会を改めて再訪したいと願うのみ。

Inbound鎌倉

鶴岡八幡宮にて

 お守りが欲しいという家人の求めに応じて久々の鶴岡八幡宮。うっかりと北鎌倉ルートで渋滞にドはまりし、紫陽花寺として名高い明月院の人気を思い知らされる。なにしろ六月だもの、ちょっと考えれば予測できたはずなのに頭の錆は如何ともし難い。   円安がブースターとなって空前のインバウンドなのだそうだが、ここを訪ねただけで嫌と言うほど実感を強いられた。日曜日にして参拝客の過半数は外国人なのではないかと。これが平日なら推して知るべし。  寺社の静謐と観光客の喧噪。なんだか釈然としない参拝となった。

カルガモ(軽鴨)

 逃れた先の源氏池。蓮や睡蓮の開花には未だ間があるようだったが、鯉の餌を横盗りするカルガモの逞しさに気を取り直す。  せっかくだからと訪ねた鎌倉国宝館の収蔵仏像群や企画展示に気を良くし、余勢を駆って鎌倉文華館の鎌倉古刀に息を呑む。なんやかんやと楽しめましたとも。

賓客越冬

トモエガモ(巴鴨)

 この冬の日本列島はトモエガモの当たり年だったようだ。島根の宍道湖では58,000羽、千葉の印旛沼にいたっては66,000羽の飛来が確認されたとか。そんな中で近所の雨水調整池でも数十羽のオシドリに紛れて雌雄2羽づつ4羽のトモエガモが越冬した。  こうなると本当に絶滅危惧種かよとツッコミを入れたくもなるけれど、10年前なら「どこそこにトモエガモが」というだけでバードウオッチャーが集まったものだ。

  このトモエガモたちはオシドリ以上に警戒心が強く、なかなか観察機会が得られなかった。オスについては過去に幾度かの遭遇で其れなりに観察・撮影出来ているのだが、未だに納得できるメスの撮影が出来ていない。(下のカット右上がメス)  宍道湖印旛沼の数万羽からすれば4羽など知れた数だが、地元の池では希少な賓客。オシドリの越冬定着は勿論だが、トモエガモの晩秋再訪を願ってやまない。

 

花樹とメジロの季節 その参

メジロ(目白あるいは繍眼児

 ウメの開花からソメイヨシノが散るまでの季節。メジロは花蜜に酔い、ヒゲボウズはメジロの放つ健気に酔いしれる。  今回のシリーズは全て裏山の早咲き桜とウメの花(終わっていたけど)。サクラはおそらく河津桜だろうと思われる。                      たった3本のサクラだが、例年よりメジロの集まりが良い。周辺地域には早咲き系のサクラが少なくないのだが、裏山ほどにはメジロを見かけない。蜜の量や質などメジロの好みに叶っているのだろうか。  その裏山ではサクラのピンクも褪せてきた。例年のことではあるけれどソメイヨシノの開花までは暫しのインターバルとなる。とりあえず花樹&メジロも一段落。お粗末でした。

花樹とメジロの季節 その弐

メジロ(目白あるいは繍眼児

週末は珍しく鳥撮り三昧できたので、桜とメジロを連投。  因みにメジロの季語として用いられる「繍眼児」の「繍」には縫い込みや縫い取りといった意味があり、白糸で刺繍した目の小さな奴ということらしい。  メジロの目をつぶさに見れば納得できるかな。  〆は久々の飛翔シーン。実のところまだまだ撮れたので、その三も連投するかも。

花樹とメジロの季節 その壱

メジロ(目白あるいは繍眼児

 花の終わった紅梅の枝で、久しぶりにメジロ団子を見つけた。まぁ見ているこちらが赤面するような甘々な様子。これもまた春なんだなぁ。  一方の河津桜では恒例の花蜜に酔うメジロ祭り。桜林を独占したいヒヨドリと、隙を狙うメジロの攻防もいつものことか。                            春の兆しを実感しつつ杉花粉に眼を屡叩くのも毎春の恒例。