大塚・歳勝土遺跡

弥生期の環壕集落といえば真っ先に思い浮かぶのが佐賀県吉野ヶ里遺跡。なんちゃって考古学ファンとしては青森県の三内丸山*1とともに一度は訪ねたい遺跡。そんなメジャー遺跡にはとうてい及ばないけど、我が横浜市にだって弥生期環壕集落の遺跡があります。市西北部(港北ニュータウン)に位置する弥生中期の大規模集落と隣接する方形周溝墓群を合わせた「大塚・歳勝土遺跡」がそれ。
ということで鳥ネタ夏枯れの折、近場の遺跡散策に出かけてきました。

↑遺跡全景
マンションや商業施設が木立越しに見えてしまうところが少々興ざめな風情ですが、木柵に囲まれた環壕の内側には竪穴式住居6棟に加え高床式倉庫が復元展示されています。土地開発が全てに優先した70年代にその1/3を保存することが出来たのは奇跡と言っても過言ではないけれど、90年代であれば全域保存も可能だったように思え残念です。



↑高床倉庫(復元)
正倉院にも通じる高床構造。蒸し暑い夏の日盛りに見ると、否が応でも東南アジアの影響を意識します。



↑環壕と呼ばれる空堀*2
集落を仕切る設備がなくオープンだった縄文期と異なり、稲作中心の弥生期は水利・農耕地・収穫を巡り集落間の抗争があったのでしょう。この集落(ムラ)の発生がやがて小規模な国家(クニ)の成立に繋がっていきます。



↑大塚遺跡の切断消失部分
この切り通しで環濠集落の北西側2/3が切り崩されてしまいました。現在の横浜市営地下鉄センター北駅付近まで広がっていた環壕集落の全貌はもう二度と戻りません。新設の道路を直行貫通させる為にこれほどの文化財を破壊するとは。列島改造論が吹き荒れた頃とはいえ、私の理解を超える愚挙。しかもこの道路、隣接する横浜市歴史博物館にちなんで「歴博通り」と命名されています。皮肉にしか聞こえないなぁ。

*1:最大級の縄文期集落遺跡

*2:水堀は環濠、空堀だと環壕と区別される